ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

1. 原点

私にとって、子どものころ最も強く印象に残った記憶は、小学校に上がる前のある日、気がつくと、縁先に脱いであった下駄が真っ二つに割れていた光景。あとは、麦畑に堀った穴に土の屋根をかぶせた防空壕の中で、ラジオから流れる聴きづらい言葉に、まわりの大人たちがみな泣いていたのをぼんやり思い出す。

今から思うと、当時は埼玉県の深谷に疎開していたときで、下駄が割れたのはアメリカ軍の艦載機の機銃掃射の流れ弾によるもの。ラジオの件は昭和20年8月15日の昭和天皇による玉音放送を聴いたときのことだったのだろう。

一方、より確かな思い出は、それから少したったころ、父に連れられて深谷から赤城山へ木炭トラックに乗って上っていった時のこと。前橋から砂利道をずっと上がっていくと、下の街からは青く見えていた山が、土の色は茶色くて――なぜ、そうなのか? としつこく父にたずねたのをはっきりおぼえている。それ以来現在にいたるまで、わからないこと、納得できないことには「なぜ」と問いかけることだけは忘れないようにしている。

これまで歩んできた道を振り返ると、少年期や青年期に出会ったいくつもの出来事が、自分というものを形づくる上で大きな意味をもっていたことに気づかされる。いちばん古い記憶は、小学校4年の冬の日の思い出だ。思い返せば67年前の私が、夜に明かりもほとんどない田んぼの中の道に立ち尽くしている姿が甦ってくる。

終戦から3年を経たばかりのその年の冬、学校が休みに入ると私はたったひとりで志賀高原へと赴いた。志賀高原は私の父が仕事の関係で深い縁のあった土地で、前年の冬に私は父に連れられて志賀高原に行き、初めてスキーというものに出会っていた。「こんなにおもしろいものがあったのか」とたちまち夢中になって、次の冬が来るととにかくスキーをしに行きたくて行きたくて仕方がない。父に「早くスキーに行きたい」と訴えると、「それなら、ひとりで行け」と言われた。10歳の子どもに随分と無茶な話だが、何か思うところがあって父がそう言ったのかどうかは今となってはわからない。そう言う父も父だが、「じゃあ、ひとりで行きます」と出かけた私も私だと、今にして思う。それだけスキーの魅力が大きかったのだ。

子どもひとりで荷物を背負ってスキー板をかつぎ、長野で乗り換えて湯田中までは長野電鉄で行く。当時長野電鉄には、冬期は暖房用に火鉢が入っていたのを覚えている。冬でも湯田中から2kmほどの上林まではバスがあったが、そこからは歩きだ。前の年の経験があるので道はわかるが、1月に積もる雪の中、高原への山間の道を5時間かけて上っていった。何日か遅れて父母や兄弟も合流したが、私は家族が帰った後もひとりで残ってスキーをやりたいと思った。そこで「学校が始まるのに間に合うように帰る」と父に言うと、返ってきた言葉は行きと同様「それじゃ、ひとりで帰れ」というものだった。

帰途は普通、長野で長野電鉄から国鉄へ乗り換えるが、この時は長野の3駅手前、信濃吉田で下りた。車中で知り合った人から、信濃吉田で下りて国鉄の北長野まで20分ぐらい歩けば座れる、と教わったからだ。国鉄の上り列車は長野始発ではなく、長野でどっと人が乗り込むのでまず座れない。しかし北長野で乗ってしまえば席が取りやすい、というわけだ。

信濃吉田の駅を出て、歩き始めた。最初は家へ帰る人たちがたくさんいたが、1人消え、2人消え、とうとう自分ひとりになって……、はたと「どっちへ行けばいいんだ?」と立ち止まった。時間はもう夜の9時近くで、あたりは真っ暗。田んぼの真ん中のあぜ道みたいなところで、たったひとり。 怖さと心細さで立ちすくむ思いだった。しかし助けてくれる人も頼れる人もなく、自分で判断するしかない。駅の位置関係やここまで歩いた道を思い返して、こっちだろうとあたりをつけて再び歩き始めた。

思えば、これが岐路に立ってすべてを自分で判断しなければならない、最初の経験だった。決めるのは、自分自身。考え抜いて、最後はたったひとり、思いきわめて行動するしかない。私は今に至るまで、大小にかかわらず判断を迫られる場面に数多く出会ってきたが、この時の経験がすべての原点だと思っている。

さて、ようやく北長野に着いたが、今と違ってホーム上に乗車位置が明示してあるわけでもなく、どこで待っていたらいいのかわからない。列車が来たものの、乗車口は遠く離れていて「ああ、もうこれじゃ座れないな」とあきらめ気分になっていたら、窓をぱっと開けてくれたおじさんがいた。

「坊や、ひとり?」

「そうです」

「おいで、荷物をよこしな。ほら、手を出しなさい」

荷物を窓から入れ、私を引っ張り入れてくれた。乗り込んだのは列車の真ん中あたり。普通に乗って乗降口近くにいるよりも、真ん中の方が長野に着いて人が下りた時に席を確実に占められる。実際に長野で座ることができたが、東京まで8時間を座れるかどうかで天と地ほどの差があり、本当にラッキーだったと思う。

私はこれまで人との出会いに恵まれてきた。この時の窓を開けてくれたおじさんとの出会いもそのひとつ。そしておじさんとの幸運な巡り会いも、その前に自ら行動をした自分があったからこそのこと。そういう素晴らしい勉強を小学校4年の時にさせてもらった。

これは、その後の自分のあり方を方向づける、大きな意味のある経験だったと思っている。