ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

3. アメリカ兵を救った話

冬に志賀高原に通ううちに、行く手にそびえる山々への興味が芽生えるのは当然の成り行きだ。「一度登ってみたい」と、山へも入るようになり、高校から大学にかけては友達と立山から穂高を何度も縦走するまでになった。そんななかで、何度か遭難者を助けたこともある。一度目は高校2年生の時。学校のクラブ活動でも登山をやっていたために、合宿の予備調査で先生方と涸沢に入った時のことだ。

あいにくの雨続きで動くことができず、もう調査は中止して山を下りようということになった。そんな時に大怪我をしたアメリカ兵に行き会ったのだ。怪我人ともう1人のアメリカ兵は横須賀の兵士で、前に2人で富士山に登り、あまりに素晴らしかったので穂高にも来たのだという。ところが、持ってきたのはピッケルではなく富士登山用の金剛杖。それで1人が滑落し、岩に頭をぶつけて陥没骨折の重傷を負っていた。幸い、同行していたのが英語の先生だったので、いろいろと事情を聞いてみると、今日中に隊に帰らないと脱走と見なされて軍法会議にかけられる、だからなんとしても連絡をしなければならないという。

とにかく怪我人を助けるためにも、彼らを脱走兵にしないためにも、一刻も早く下界と連絡をとらなければならない。それで、英語で片言程度は喋れる私が怪我をしていない米兵と一緒に、連絡のために上高地まで急ぐことになった。その際言われたのが、「一昨日から雨が降っているから、鑓沢と涸沢が合流するところにある大橋に水がかぶっているかもしれない。もしかぶっていたら、危ないから絶対に渡ってはいけない」ということだった。

山を下り始めたのが3時頃。橋までたどり着くと、丸木2本の橋は完全に水没してはいなかったが、時おり水をかぶるような状態だった。これぐらいならまだなんとかなる。水が引くのを待っていたら、怪我人は死んでしまうし、軍法会議にもかけられてしまう。そう思って渡ろうと決断し、「自分が最初に行く」と言って先に渡り、「お前も来い」と言ったら、返事は「NO!」。アーミーじゃなくてネイビー、海軍であるにもかかわらず、だ。

大急ぎで戻って「お前の荷物も持ってやるから」と言ってまた渡った。なのに、また返事は「NO」。どうしたものかと私は考えた。私ひとりで降りたとしても、横須賀には連絡のしようがない。ただし、怪我人を助けることはできる。でも、こんな大雨のなか、ここに水兵をひとりで残していったら死なせる結果になるかもしれない。だからやはりひとりで下りるわけにはいかない。

たまたまその時、私は細引きを持っていた。そこで、それを手にもう一度もと来た側へと渡った。

「お前が一度も渡らない間に、俺は何回渡ったと思っているんだ。お前の親友が死んでしまうんだぞ、お前も軍法会議だ。それなのに何故できない」

そうしかりつけ、「紐でしばれば、もし落ちても俺が引っ張ってやれる」と言い含めた。

水はごうごうと流れていて、実際に落ちたらひとたまりもなかったろう。しかし、これ以上時間を費やせば水がかぶってしまうのは明らかで、もう一刻の猶予もない。「引っ張ってやれる」と聞いて安心したのか、水兵はなんとか橋を渡った。そこから歩いて横尾へ出て、明神を通って上高地へ。雨も降っている上、途中で日が暮れたのでたどり着いた時には夜の10時になっていた。

五千尺ホテルから横須賀へ電話を入ると、翌日、ヘリコプターが上高地まで飛んできた。当時の日本にはヘリコプターなんてなかったから、さすが米軍だと驚いたものだ。残っていた先生たちが怪我人を担架で担いでおろしてきて、ようやく一件落着。誰も死なず、脱走兵にもならずに済んだ。