ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

5. 横手山でケガ人を助ける

真冬の吹雪のなかで、人を助けた経験もある。

志賀高原から見ると、横手山の裏側にある渋峠での出来事だ。その日、大学3年生だった私は知人のJTB専務と一緒に遊びに出かけた。丸池から横手山の脇を抜けて、渋峠の横っつりというところを通り、そこからスキーで滑って下りていこうというプランだ。すると、少し離れたところに、雪の上を這って登っている人がいる。

「どうしたんです」と聞くと、

「いや、足の骨にひびが入ったようなんです」と言う。

「ここから結構ありますよ」

「いえ、なんとか行けると思うので」

「じゃあ荷物だけでも持ちましょう」

ところが、歩きだして5分ほどもしたら、ものすごい吹雪になってきた。

「まずい、このままでは死んでしまう」

と思い、戻ることにしたが、もちろん吹雪のなかで這って歩くのは困難をきわめる。山に慣れて、ある程度の重さは担げる私がその人を背負うことにし、なんとか「のぞき」と呼ばれる地点まで運んだ。今ならそこからエレベーターがあるのだが、当時はもちろんまだない。「のぞき」までは下りが多くてまだ楽だったが、そこからリフトまでの200m、苦労の末にようやくその人を担ぎ上げた。

幸いまだリフトは動いていて、係員にわけを話し「すぐに救急の手配をしてください」と言ったら、「レンジャーを出します」ということだった。それだけ厳しい状況だったわけだが、私と専務には切迫した気持ちはさほどなく、そこから吹雪のなかを滑って戻ることにした。

熊の湯に泊まるという専務と別れ、私は丸池へ。もう日はとっぷりと暮れ、真っ暗ななかをスキーで滑り降りるのは大変なことだった。そうこうしていると、下からライトを持って上がってくる人がいる。

「どうかしたんですか」

そう聞いたら、

「お前を探しているんだ」

父の怒声が飛んできた。吹雪はひどくなるし、あまりに帰りが遅いので、捜索隊を出したのだという。結局丸池にたどり着いたのが8時頃。人を助けてリフトまで背負った話を「かくかくしかじか」としたのだが、6人もの捜索隊を出した父にしてみれば納まるはずがない。「どうせ、どこかで寄り道でもしていたんだろう?何を考えているんだ、お前は」とさんざんに説教を食らい、その晩は信じてもらえなかった。ところが、あくる日、JTBの専務が丸池に下りて来て、詳しい事情を説明してくれた。専務は私の行動を非常に高く評価してくださり、「無試験でウチの会社に来い」と言う。それを聞いて、昨日は怒声を浴びせた父も、打って変わってうれしそうな表情を見せていた。