ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

6. 岩場の教訓

スポーツは大好きで、高校から大学にかけては冬はスキー、他のシーズンはサッカーを主体にテニスにもおおいに興じていた。しかし、何が好きかといわれれば、やはり山だ。

バカじゃないと、山はできない。あんなに重い荷物を担いで、危険とも隣り合わせだ。一度など、涸沢に入る時に幕岩から直径3mほどの大きさの岩が落ちてきたこともあった。岩は他の岩を従えて「子連れ」で落ちてくる。だから急いですぐそばの岩の陰に隠れたが、3秒後にダーッと大小の岩がなだれ落ちてきた。もし、少しでも躊躇していたら、直撃されていたことだろう。もちろん、自分でもそんな事態に直面すると思って登っているわけではない。運不運が生死を分けることにはなるが、その場合も運を探して、次の行動に動き出す行動力が必要だと学んだ。

登山とはいっても、最初の頃は山歩き、ワンダーフォーゲル的なものにすぎなかった。本格的な山岳登攀への転機は、先輩に誘われて北穂高岳にある岩場で体験した、初めての岩登りにあった。

割とやさしい岩場で、ザイルは結ばずに最初は順調に上っていたのだが、200mぐらい上ったところで上から小さな石が落ちて、一緒に登っていた友人の腕時計に当たり、ガラスが割れた。それを見た途端、体が震え出した。友人の方もダメで、もう動くこともできない。恐怖感が募って、知らず知らずに体が山肌に近づいてしまう。

実は、岩登りでは山から体を離すのが鉄則で、近づくほどスリップしやすくなって危険は増す。先輩から「絶対に体を山に近づけるな」という話を聞かされてはいたが、わかっていても体を近づけてしまう自分を感じてしまった。ぴくりとも動けずに、ただ震えている自分を……。

そうなるともうダメだ。

「神様仏様、助けてください。もう二度と山なんかやりませんから」

そんな心境に陥ってしまった。

先輩は10mぐらい上で待っていて、「馬鹿野郎、左にいいホールドがあるから、そこに手を伸ばせ」と言ってくれている。ところが、それでも動けない。手を伸ばせば四点確保が三点確保になってしまう。それが怖くてできないのだ。「だらしない」「これはやばい」と思った時、「左に手を伸ばせ」といくら言っても動けない私を見切るように、先輩が「それなら死ね、さいなら」と言い、行ってしまった。

彼が姿を消さなかったら、きっと私は死んでいただろう。

彼が消えた途端、これは自分でなんとかするしかないと思いが定まった。助かるかどうかは自分次第だ、と。先輩が助けてくれると思っていた間は震えていた体が、彼が消えてしばらくすると動き出した。そして数十メートル上の非常にいい足場に、友人ともどもたどり着くことができた。

「さいなら」と言った先輩はそれしか方法がない、助けに行っても無理だと知っていたのだろう。先輩は私たちがたどり着いた足場で、ザイルを結ぶつもりでいたらしい。でも私たちは初心者で岩場は初めて。下を見れば200mの絶壁だから、動けなくなるのも無理はないのだが。

それでも「自分は登れた」という、達成感ともいうべきもの。あくなき自己実現の欲求こそ、人をいきいきと生かす一番の原動力ではないかと思う。

実際、ここで一緒に死の淵を覗いた友人とは、その後、彼が東レへ入社してからも交流が続き、たがいに忙しい時間をぬって何度も登山を共にしたのち、定年後にはフェニックスの大阪支社長にもなってもらった。素晴らしいナイスガイで、かけがえのない友人である。そんな彼と巡り会わせてくれた、北穂高岳での経験には感謝するばかりである。