ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

33. 重くのしかかった震災、拓銀の破綻、贋ブランド

思い返すと、経営が暗転するきっかけはいろいろと思い浮かぶ。

経済の低迷で社会状況が悪化している95年に起きた、阪神大震災。阪神圏の1000万人が震災の痛手をこうむり、関西で商品が動かなくなった。それがどっと名古屋に流れ込むことで、名古屋の市場が崩壊し、中京地域のスポーツ用品小売の最大手だったオリンピックスポーツが、97年に倒産した。フェニックスではオリンピックから20億円のオーダーを受けていたので、20億円の売掛金が回収不能になってしまった。

その頃もいい商品、売れる商品を作っているという自信はあったし、実際に注文もあった。ところが、商売として成り立つのはそれが金になってからだ。フェニックスの商品の人気は高くても、バブル崩壊の影響もあって若年層の可処分所得が減り、市場自体が7割方失われるなど、急激に縮小してしまったのではどうしようもない。スキー用品がまったく売れなくなり、オリンピックだけでなく神田にある有名店など一流のスポーツ用品大型店の経営悪化が続き、取引相手が倒産するといったことが重なった。これが原因のひとつ。

ふたつめは、北海道拓殖銀行の破綻だ。拓銀はメインバンクに次いでフェニックスが資金を借りている銀行だったから、これは大きな打撃だった。まさか銀行がつぶれることがあるとは思っていなかった。私に限らず、当時は誰しも同じだったと思う。この後、興銀や長銀の破綻が続くが、それまでは銀行が潰れるなどという事態が起きたことがなく、拓銀が初のケースだったのだから。

加えて、KAPPAの贋ブランドが大量に現れたことも、痛かった。最初、韓国から入ってきた数は10万枚程度という話だったが、実際には150万枚から200万枚も入ってきただろうという数の多さだった。しかも、そのほとんどはスポーツ専門店以外のカジュアルショップや、大手量販店のルートだったため、発見が遅れたのも事態を悪化させた。

当時の商法では、贋ブランドであることの立証はこちら側がしなければならない。しかも、韓国で贋ブランドを作っていたのは、前年までKAPPAを扱う前出BASIC SPORTSの正式ライセンシーだったハンウーという会社であり、税関での書類の審査などが非常に難しかったうえ、罰金が300万円という少額だったことも、贋ブランドの侵入を抑えられない大きな原因となった。ハンウー側には、シップバックのペナルティーもあったが、実際には国内の他の港へ持っていって通関できるというのだから、ほとんど意味がない。現在は通関業務が格段に厳しくなった一方、本物であることの確認義務は輸入業者に責任が課され、罰金刑は10年以下の懲役刑(もしくは1000万円以下の罰金刑、あるいはその両方)になり、シップバックは焼却処分になった点を考えると、隔世の感がある。商法においてこれほど大きく変わった条文はなく、それだけ贋ブランドが国内市場に与えた影響が大きかったのだと思う。

取引先の相次ぐ倒産に加え、震災、拓銀の破綻、贋ブランドの3つが重なり、フェニックスに重くのしかかることになった。