初めて百貨店の仕事に挑戦する日々は充実していた。しかし、気になる話が聞こえてきた。父の会社である鳳商会の経営が思わしくないというのだ。
父にどれほど危機感があったのかはわからない。ともあれ同じ伊勢丹に勤めていた兄のところへ「なんとかしなければ」と話をしに行ったが、兄は「俺は受けるつもりはないよ」と言う。そうは言っても、外からあれこれ言ったってどうなるものではない。「自分が入って立て直すんだ」という気概で臨まなければ立ち直らないとさんざん説いたが、兄をその気にさせることはできなかった。
仕方がない、小菅さんや山中さんには「せっかくスイスまで2度も迎えに来ていただいて感謝しきれるものではないのに、申し訳ないが……」と手をつき、事情を話して父の会社へ入ることになった。
鳳商会では製品の多くを海外から輸入していた。しかし当時は高度成長の活況のなかで商社が破竹の勢いで業績を伸ばしていた時期だ。たとえば鳳商会が市場を見て海外の製造元に3000個を発注し、それを売る努力をして成果を出しているところへ、商社が横からいきなり1万個注文して市場を取ってしまうのだ。まさに強者の横暴で、数のにものを言わせて商圏を奪われるといった事態が頻々と起こり、鳳商会の業績を悪化させていた。
資本主義の原理から考えれば、やはり資力にはかなわない。少なくとも商社と同じようなやり方をしている限り勝ち目はない、不毛な戦いはやめて違う土俵で勝負しなければ。それには、人が作っているものをただ仕入れて売る卸から脱却して、メーカーへの転身が有効だ。
鳳商会に入って専務になった私は、そんな風に考えていたが、実現するためには数々の改革が必要だった。入社当時、鳳商会の社員は13人。長年勤めている年配の人もいたから、30歳の私としては、気をつかわねばならないことが多かった。敬意を払って敬語を使いつつ、しかし新しい商品づくりに乗り出すにはいろいろと意見も言わなくてはならないから、「お願いします、よろしく」という態度を心がけていた。
問屋からメーカーへの方向転換を図るためには、まずは製造のことがわかる人、メーカーにいた経験のある人材が必要だった。それで、朝日新聞に求人広告を出した。料金は30万円。当時にすればかなりの金額だが、いい人に来てもらうには大きな広告でないといけないからと、張り込んだのだ。ところが来たのはたった3人。1人は箸にも棒にもかからず、あとの2名を採用したが、夕方警察から電話がかかってきた。
「こういう男が来ませんでしたか?」
「来ました」
採用者のうちの1人が該当していた。警察の話では、その男は新聞募集をかけている企業にあちこち顔を出しては、交通費をせしめているのだという。福島から来たと称していて、その交通費が忘れもしない、6200円。警察からは「その男はそのまま現れませんよ」と言われたが、その通りの結果になった。採用できたのはたった1人だけだった。
そんな状態から始まったメーカー化への道は、小さな会社にとっては本当に険しいものだったが、私は打てると思う手をひとつひとつ打っていった。 企業の顔となる新しいブランドを用意しなければならない。「鳳」だからブランド名は「フェニックス」でどうだろう。ところが、カイザー・ロスというアメリカ最大のアパレルメーカーが、すでにこの名を登録していた。
社名を変更するためには、この商標を獲得しなければならない。そのために、ニューヨークに飛んだ。生まれて初めてのアメリカであり、ニューヨークであり、それも仕事である。「やっとここまでこれたな」と、大変な喜びとともに、かつてない緊張感を覚えた。
摩天楼の一室で、商標権の獲得の交渉が始まった。1日はかかったが、幸いにも自分が想像していたより安い金額で譲渡が成立した。これでフェニックスの名が社名も含めて使えることになり、メーカーへの転身の第一歩をしるすことができたと思った。