「私は全部役職を退く、会社を辞める」
当初、そう父は言っていた。初めはそれでいいかと思っていた。しかし創業者が辞めれば、「何かあったのか」「会社がうまくいっていないのか」と勘繰られかねない。
「働けるうちは、会社にいた方がいい。そうでなければ、人間・田島一男は生き残っても、企業人・田島一男は失われますよ」
そう説得して、会長職をはずさなかった。
外から見ると、社長職は息子に譲り渡しても、会長として目を光らせている……と見えたかもしれないが、実質は対外的な顔としての役割を果たしていただけで、父は以後、実際のビジネスにはタッチしなかった。本人からすれば、私と意見がぶつかるのもわずらわしく、かといって私のやることに諸手を挙げて賛成かといえばそういうわけでもなく。自分は自由になって好きなスポーツをやり、冒険心を満たしたいというのが本音だったのだろう。
おそらくそうしたことは私が専務として入った頃から、始まっていたのではないか。工場を建てたり研究室を作ったり、どんどん投資を行って攻めの経営をすることが父は怖かったのではないかと思う。
父が会社を作ったのは47歳の時だ。会長に退いた時は設立20年目の年で、66~67歳だった。それぐらいの年になると、人間はどうしても守りに入る。もしもこれが10年若い時であったら、私の方が潰されていたかもしれないし、父の方も会社を売ろうという気にはならなかっただろう。
私自身としても、若さゆえのパワーや情熱、体力がある32歳だったからこそ、できたことだったと思っている。