ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

31. 長野オリンピックでノルウェーのアタッシェに

アタッシェ、という役目をご存じだろうか。外交使節団などの場合は随行員や使節団の任務に協力する専門職員のことをいうそうだが、オリンピックの場合には、大会の組織委員会とNOC(各国のオリンピック委員会)の仲介役のことをいい、大会に際しての旅や宿泊等々の問題に関して、さまざまな手助けを行う。大会に参加する各国のオリンピック委員会が代表選手団と同様に正式メンバーとして任命し、臨時でその国のNOCを代表する役割を担うが、必ずしも自国民でなくてもかまわない。開催国で活動するわけだから、開催国の人間が起用されることが多いというのが実際のところだ。

98年に長野で冬期オリンピックが開催された時、私はノルウェーのアタッシェに任命された。ノルウェーとはこれまでも縁があって、ノルウェーのアルペンチームのウェアの提供もしていた。オリンピックでは真っ白なロングコートにノルウェーの国旗に倣って赤とブルーのマフラーを配した入場行進用のウェアもフェニックスが作ったし、奥志賀に94年にオープンしたホテルグランフェニックス奥志賀は、ノルウェーのアルペンチームの宿泊先にもなっていた。 来日したノルウェーの首相や皇太子をアテンドするのもアタッシェの仕事だ。

当時の首相は、前身が教会の司教という人だった。その首相が大いに関心を寄せていたのが善光寺だ。善光寺は仏教が宗派に分かれる以前からの古い寺院で、寺院自体は無宗派。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」のツートップだが、大本願上人は女性が務めている。「女性がこれほどの宗教組織の長だというのは、世界に例がない」からと、首相は訪問を熱望していた。

ところが、首相のスケジュールを見ると、善光寺が閉まる時間にどうしても間に合わないのだ。私自身が出向いて「なんとかならないか」と交渉したが、善光寺には日の出とともに開門し、日の入りとともに閉門するという大昔からの決まりごとがあるからと、首を縦に振ってくれない。

「ノルウェーは日が昇りっぱなしで沈まない季節がある国で、そこから来る首相だからなんとか考慮してもらえないか」

「今回のオリンピックはインターナショナルな長野の幕開けとなる特別なものものだから、30分だけ待ってほしい」

ちょっと不思議な理屈にも思えたが、言葉と心を尽くしてお願いし、実現にこぎつけることができた。

一連の功績により、99年に私はノルウェー国王のハラルド5世からノルウェー王国功労勲章ナイトの称号を受けた。外国人に与える称号としては一番高い位だという。もちろんそのために一生懸命務めたわけではないが、妻とともにオスロを訪れた旅の記憶とともに、なによりも晴れがましい栄誉となった。 余談になるが、80年代から90年代に回転と大回転のトップレーサーとして大活躍した、イタリアのアルベルト・トンバという選手がいる。カルガリー、アルベールビル、リレハンメルで金メダルを3つ、銀メダルを2つ獲得し、パワフルな滑りと激しい性格から「トンバ・ラ・ボンバ(爆弾男トンバ)」の異名を持っていた。

そのトンバからグランフェニックス奥志賀に「どうしても泊めてほしい」という申し出があった。ノルウェーチームに聞いたら、「ワックスの秘密を盗まれると困るから、断ってくれ」と言う。世界のトンバがさすがにそれはないだろう、と思ったが、彼らがそう言うなら仕方ない。それにホテルとしても、トンバが連れてきている専属料理人を厨房に入れるわけにはいかなかった。「プールは使っていいですよ、サウナもどうぞ、でも宿泊はできません」と言うと、「私を断ったのは田島さんが最初だよ」と言われた。

結局、長野ではトンバはメダルを獲得できず、この年を最後に引退することになる。トンバを破り、男子回転で優勝したのはノルウェーのハンス・ペテル・ブロースで、おおいに驚かされたものだ。