ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

37. 夢を託したホテル、グランフェニックス

志賀高原の北端にある奥志賀にホテルをオープンしたのは、フェニックスの業績が絶好調だった94年1月のことだった。

私はスイスをはじめ、ヨーロッパ各地のスキーリゾートでホテルをずいぶんたくさん見てきたし、泊まってもきた。フェニックスで手がけているウェア類は、素材も進化し、流行もあって、毎年のように変わっていく。いくらいいものを作っても、次の年には陳腐化してしまうのだ。しかし、いいホテルには流行はない。スポーツウェアを作りながら、いつかは陳腐化とは無縁の、私が理想とするホテルを作りたいと夢を描いていた。場所はもちろん父にゆかりの場所、志賀高原だ。

父は志賀高原の開発にずいぶんと尽力してきた。温泉と炭焼き小屋ぐらいしかなかった1920年代、志賀高原の開発を考えていた長野電鉄の初代社長・神津藤平さんと一緒に山に入り、一帯を見て回っている。それ以来、他に先駆けてスキーリゾートへと発展していく志賀高原にさまざまに関わってきた。

父が開発に関わり、私にとってもたいへん馴染みの深い場所に存在する意味のあるホテルを経営する。「泊まってよかった」とお客様に言っていただけるホテルにしたい。社長としては建築会社と契約して、地鎮祭に出て、完成したら完成式に来て、あとは支配人にお任せというのが普通だろうが、私としてはそれはしたくなかった。

実際にグランフェニックス奥志賀に来ていただければわかると思うが、スイスのホテルによくあるシャレーのイメージで造られている。しかし、「スイスのホテルみたいですね」と言われるのはともかく、スイスから来たお客様にまで「スイスのホテルそのままですね」と言われるのは心外だ。褒め言葉でおっしゃってくれるのだろうが、造りはまったく異なっているからだ。たとえば、スイスでは伝統や既成観念に縛られているため、山の風景を堪能できるグランフェニックスのような大きな窓はない。特に建築やホテルに携わる人には、そのあたりの違いをしっかり見てほしいと思う。

なによりこだわったのは、ホテルの中にいながら自然を存分に感じられる造りにすることだった。窓は外の風景を取り込むように、できるだけ大きくとった。象徴的なのがラウンジの大窓だ。6mの高さがある一枚ガラスの窓からは、庭の木々の向こうに奥志賀の山々が見渡せる。刻々と移り変わる山の表情を眺めていると、時間が経つのも忘れてしまう。客室は腰窓だが、左右は極力部屋の幅いっぱい、上は天井までとり、下部の壁の高さは90cmまでにとどめている。それ以上になると圧迫感が出るからだ。

窓はサッシではない。木製だが気密性の高いものをヨーロッパに注文して取り寄せた。ガラスは断熱性の高いペアガラスで、開口部が大きくても外の寒気の影響をうけにくくしている。

もちろん構造自体は鉄筋コンクリートだが、内装には天然石と天然木をふんだんに使っている。木の質感は、なにより人をほっとさせる力をもつ。材はフィンランド松だが、一国からだけでは調達しきれないので、いくつかの国から輸入することになった。石材は、御影石。表面は磨かずに、壁などはあえてノミ跡を残したような仕上げにしてある。

内装に木を使う上で、問題だったのが地元山之内町の消防規定だった。消防署のある町から志賀高原まで時間がかかるため、使用する建材には防火性能に関して厳しい規定があり、そのために木材にも特殊な処理や加工が必要だった。加えて、頭を抱えたのは途中で規定が変わったことだ。窓から1.5m以内には木材を使用してはいけないというのだ。今さら壁から木をはがしてコンクリートむき出しになどできるわけがないし、そんなことでは狙っていたイメージが台無しだ。

一時は途方に暮れたが、スプリンクラーを入れればクリアできることがわかり、全館に導入した。予想外の1600万円もの費用がかかってしまったが、考えていた通りの形で完成できたことを思えば、それがお客様に安全を差し上げることになるだろう。